名前

2006年6月18日 エッセイ
ここで表記している名前のBはBasilのB。
料理などで使われるけれども別にあればあったで良いけど
無くても別に構わないもの。

そんな私も無くても別に構わない、
日に当たる事は決してない、
だから私はBasil。

居ても居なくても構わないコ。

結局

2004年12月22日 エッセイ
無事回線は復帰、しかし明日には帰省するのであまり意味も無かったり
するのだが、これは気分的な問題。
原因は何だったのかと言うのは、特別明確に書かない所から察して
もらえれば助かります。

日記記す事が特別無いのだが、数行で終わらせてしまうのもつまらない
ので、適当に雑記でも書こう…

6時台のニュースを見るとまた面識のないネット関係の人物と自殺を
図っただの、女子高生がくだらない理由で人を刺しただのと
なんともまあすごい世の中になったものだと、若輩者ながらに
思ってしまう日々だ。

最近だとそういった凶悪的犯罪等がニュースで取り上げられるたびに
精神科医が短いコメントを寄せているのだが、
複数だと自殺がしやすい状況になるから…、感情や養育のされ方に
男女差がなくなってきた為…など。
ただ事実のみを衝撃的に見せるのはTV故の事なのだろうが、
多方面からの視点を混ぜるのは悪くない。
しかしいつも思うことがあり、それは精神科医その他事件に関係が
あるだろう専門家のコメントは寄せられる。しかし
発生した根本原因それ自体にまで言及しないもどかしさを抱いてしまって
ならない。

当然個人的で矮小な意見なのだが少々上記の事に関して思う部分を
書いてみることに。
数ヶ月前にも練炭で集団自殺を行ったという報道がなされ、
彼らはインターネットで自殺希望者を募り、それを実行にうつしたと
の事だった。
そして今日報道された自殺事件も、彼らともにインターネットにて
共に自殺をする人物を探していた…と。
それに至るまでに彼らがたどった形跡や自身の環境などは報道されては
いるが、何故自殺をするのかといった部分は報道として禁句なのだろう
か?私だけかも知れないが報道でそれらを見たことがない、いや、寧ろ
理由それ自体が無いのかも知れないが。

かなり話はずれてしまうが、人間という生き物は”特別”といった
モノを重要視する。
物でも者でもモノでも、多種多様なものに対して抱く感情だろう。
例えば例外はあれど家族であったり、自身の恋愛体験だったり、
長く厚意にしてる友人や親戚であったり、限定50名様までの料理だった
り、形態は問わず。
明確に文章として現れてるのは聖書を読めば解るだろう、
キリストの生誕は処女であった母親から産み落とされたという
記述にもある通り(記憶が曖昧なので違っていたら申しわけない)。
喜怒哀楽や物、状態あらゆる方面において人間が探求ないし欲求の
対象となるのは”自分だけが持つ特別なもの”という、
共有される事が極めて困難なほどの絶対性を帯びている。
長々と書いてしまったが、一言でいうと人間は処女性に強力なまでに
惹き付けられる生き物なのだ。

では話を戻して、先ほどの自殺が何故この長い前置きが居るのか。
資本主義市場がさまざまな分野でその処女性を商品として提供している
このご時世、物だけでなく人間の感情それ自体もすれに商品となってい
るし、それは今人気になっている映画「世界の中心(以下省略)」
が大きな話題にされているのを見れば明らかだ。
特別だと思っていた感情も物も部屋から一歩外に出れば転がっている
中、それらを一種超越して存在しているのは生命それ自体、もっと
端的にあらわせば生まれる事や死ぬ事だ。

特に死ぬ事は自身における絶対的に排他である性質をもち、
他者とも共有し得ない事柄だ。故に死という排他的な事は汚される事無く
存在し得る。

自殺した彼らは世の中に氾濫している言葉だけの特別なものではなく
本当の意味での自分だけに特別なものを欲した故に、
死と言う絶対的な処女性を求めた結果なのでは無いだろうかと思う。
とはいえ、死と引き換えに得る処女性は自身の中で持続されないという
二律背反なのは言うまでも無いが…
感情という物も、既にこの次元にまで来てしまっているのだろうかと
一種の憂いさを切に感じてやまないのだ。

しかし結局の所いくら憂いたと言えど何も変わることも無く、
あくまで出来事として報道を眺めるだけではあるのだが。
そして自分が考える事も単なる戯言、他の人も思っていることだと
自分に言い聞かせつつ本日はこの辺で。
B

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